道を渡るときには
「右見て、左見て、もう一度右を見て、車が来なければ渡りましょう。」
大人になって色々な事象を経験していくと、実は意味が深いなと思うのです。
「右は最初に見たけれど、もう一度、しっかりと確認しましょう。」
という物事へ慎重な姿勢と。
「車が来なければ」
という見落としへの警戒感、思い込みを無くそうという自己を律する考え方。
たとえ信号があって、横断歩道があっても社会を信じるのではなく、自分のこの感覚と考え方を持って安全に道を渡りましょう。
そうすれば渡れない道はない。
そう思うのは間違いでした。
発展途上国という言葉は近年少し死語になりつつあるように感じていますが、昔旅した頃の東南アジアはまだまだ発展途上で、タイでもベトナムでもカンボジアでも、それこそ、中国だって昨今のように整備された街並みではありませんでした。
どういうことかと言いますと、鉄道や地下鉄などが整備されていないために、ほとんどの人々が車やバイクなどで移動します。車やタクシー、バスの隙間を埋めるように走る無限に思えるほどのバイクの数とトゥクトゥクのような乗り物。
そんな街の道路に信号が少なかったり、車線の感覚が薄かったりするので、割り込みとか渋滞とか逆走とかがあったり、そこら中で人が道を渡ったりします。
そうすると鳴り響くクラクションの音。ひっきりなしに街を覆い尽くすエンジン音。
カオス。いや、これこそが東南アジアの活気とエネルギー。
日本ではなかなか味わえない雰囲気ですが、以前、豊洲に移転する前の築地場外市場に何度が遊びに行ったことがあり、そこには「東南アジアだ!」と思える活気とエネルギーがありました。
そして特にベトナム。北部の首都ハノイでも、中部の都市ダナンでも、南部のホーチミンでも、とにかく溢れているエネルギー。
宿に泊まり、クラクションとエンジン音で目を覚ます。
宿を出て、街歩きを始めると道が渡れないほどのバイク。
それでも地元の人々は渡って行きます。車やバイクの流れの隙を縫うように渡っていくのです。
地元の人たちの動きをよーく見て真似して、何度も経験していく中で少しずつ渡り方が分かってきました。
それは、距離を測り、相手を信じて、こちらの動きを相手にも読ませること。
大事なことなので、もう一度言いますが、
「相手を信じて、こちらの動きを読んでもらうこと」です。
具体的にどうするかというと、最低限、渡れそうな距離感のある車間のタイミングを測ります。
そして、「私、渡りますよ」と宣言するかのように、分かりやすい動きで一歩踏み出します。
ゆっくりとできるだけまっすぐ、変則的な動きをしない。
そうすると車やバイクの方が避けてくれます。
これができるようになると、ベトナムではもしかしたら目をつぶっても道が渡れるようになるかもしれません。
むしろ信じることが怖くて目をつぶっていないと渡れないような気がするほどです。
道を渡るということが哲学になる。
「そんなことじゃ、ベトナムで道を渡れないよ。」と友人に話したことがあります。
もし〜だったらどうしようと心配したり、周りの人の顔色を伺ったり、あれやこれやと迷っていたりしてはベトナムではずっと道が渡れないのです。
相手への信頼の上に、ゆっくりと確実に、まっすぐ、自信を持って歩む。
まさに人生における哲学です。
とか言いながら、事故とかすごく多いらしいんですけどね。
つまりは人生における哲学とは運ということ。
それが世の中の真理ということでしょうかね。